「游美」考
善重寺住職 藤本貫大
「遊ぶ」とは、何かの道に通じるということだろう。この漢字には、静かな川の浅瀬で子供が無邪気に戯れている意味があるという。この子は他事を考えずに一心なっているのである。
「美」に游ぶなんて、大抵の大人には、どこか世相に紛れて忘れてしまっているのではないか。そう思うことがある。しかし人類の営みは、人が道具を持ち火を使い、鉄を見つけた。やがて宗教や哲学を見出し、芸術も同時に興してきた。やはり先達は「美」というものにヨロコビというものを数万年もの間、駆り立ててきたのである。
慶びーヨロコビ事から賜ったよろこび
喜びー楽しいことから受けるよろこび
歓びー声に出るよろこび
悦びー心がほぐされたよろこび
現今のヨロコビにも色々あるが、私は4番目の悦びこそが「美」から育まれるものであると信じている。
大きな話になったが、今回、御紹介致したいのは『夕日』というタイトルの篠田桃紅氏の103歳の時の作品である。これは、プラチナ地に墨と彩色で描かれた抽象作品である。
桃紅氏との御縁は、彼女が99歳の時、建築中の書院の襖6枚の制作を青山に在るアトリエ兼住居へ依頼のために伺った時からである。この日は午後、自らが薄茶を点ててもてなして下さり、私も話が弾み気が付くと3時間も経っていた。最終的に「描きます。書院は仏間でしょう。ところであなたの仏教で私は救かるのかしら」と仰った事が今でも忘れられない。因みに私は真宗旧跡の寺院を預かっている身である。続いて彼女は「これだけ長く生きるとは考えていなかったし、これからはお手本になる人がいない。未知の世界。自分が自分から抜け出し達観して見ている時があるの」と言う。文に起こしてみると息巻いている風にとれるが、そういう気配は全くない。これは一端でエピソードは尽きないが、その時から年に何回かお目に掛かっている内にこの『夕日』に出会ったのである。彼女の作品は、日本人のベーシックが流れていて心の奥底を揺さぶってくれると言う人が多い。彼女はいつも私に「観者が感じるままに受け止めれば良いから」と。あえてそれぞれの作品について何も語らない。独特の筆致、繊細でかつ鋭い線に加えて、102歳を超えた頃から太陽と思われる造形を描く作品が何点か現れた。この時も「まだ新しいことが出来るのよ」と。
この作品を鑑賞する時、私は思うことがある。日没の方向は彼岸。ふと窓の外を見遣った時、西側の池と林の梢に私を射す沈みゆく陽があり、その時五感との融合がある。たとえ、信仰を自覚しない人であろうとも、きっと何かを想起するであろう。美術家として106歳を超えて今も端正な作品を生んでいる前人未到の彼女に誠を捧げたい。
元へ戻るが、川は子供も游べる川瀬を与えてくれる。その川は根本として、深い川こそ静かに流れている。浅い川は騒がしい。川の流れは、山から海へ、深さ重さを感得させる。「美」もそうである。