セルジオ・マリア・カラトローニ氏によるステートメント
写真―イタリアの花と景色
写真、それは人間性の切実な欲求である。写真を定義づけしようとするには、これで十分であろう。 ところが詩というものは、首尾よく紡ぎだされた言葉遊びにおいても、常に抜け道を開いて逃げ去ってしまうのであり、それは、定義や議論といった厄介どころを、詩がうまい具合に受け入れることがないからである。故に、この写真という芸術について、写真を撮って刹那的な夢幻を捉えようとする孤独極まりない活動について、私は喜んで話そうと思う。 この情熱は収まることなく昔から持っていたもので、辺鄙な田舎での青年時代の沈黙に浸されているのだが、当時は、眼前の自然が奏でる天籟を当てもなく行き来しているうちに日常の日々はゆっくりと過ぎ去り、自然は魂の始元へと時を連れ戻していた。田舎の家々のどこかに埃まみれで捨ておかれたままの、みすぼらしく黄ばんだ印刷物の切れ端、その上にある像を見つめようとする情熱が、あの頃、私の中に生まれたのである。 私の精神は、全てを写真に撮って保管していたのであり、その幻像は生ける肉体を有していたのだ。今や多くの時が過ぎ去り、予想された多くのことが実現した。むらのある日常の靄に泡ぶく彼の人間性を追いかけるため、依然として、私はここにいるのだ。 草葉の如く生まれては消える像を、私はつかむ。光によって織りなされた魔法。いつどこでも、手つかずの清潔さに溢れた像が生まれることになる。そして逃げ道は無く、写真は閃光で目を焦がし、出来事や感情は直ちに顕現する。 そこで私は全てを無視し、そして、全てが実現する一瞬の光と影の狭間に、全てが帰着すると考えるのだ。 これらの写真は、我らがロンバルディアの田園風景に捧げられたものだ。自然の風景と人間の事柄である。家、木、平野、庭、水、菜園、廃屋は、数年前の暑い夏にローディ地区を自転車で放浪した、最も美しい時に撮られたのである。 そして、花、花咲いて喜びに満ちた植物、開きつつあるつぼみ、揺らぐ小枝、白と黒の世界独特の峻厳によって日常とはかけ離れたミツバチの群れがある。様々な季節のそよ風に吹かれ、イタリアや日本を放浪した時に撮られた写真。精神の帆走によって抽象的なままに保たれた記憶。万物を受け入れて新たな力で再生する美への、静かな捧げもの。生を告げる沈黙と、新たな生の捧げもの。セルジオ・マリア・カラトローニ(日本語訳:稲田啓)
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