私の薔薇
先日、大輪の美しい真紅の薔薇を一輪頂きました。
それはそれは美しく優雅な佇まいに、サンテクジュペリが「星の王子さま」の中で、自分の愛したわがままだけれども、大変魅力的な女性を薔薇に例えて物語にしたのには頷けます。
「あなたにとってその薔薇が大切なのは、 その薔薇のために、時間を費やしたからなんだ。。。。面倒をみた相手には、いつまでも責任があるんだよ。。。。」
「星の王子さま」には、こんな行がありますが、頂いたその薔薇を日々観察していると、その枯れてゆく様がまたまた美しいのです。
日本には侘寂という言葉がありますが、時間の経過によって変化した様子を表現すると同時に、いつか消えていなくなるであろう時を想い、静かに共有した大切な空間や時間に敬意を評した想いでもあります。
「枯」繋がりで、話しは逸れますが、「枯山水」とはもともと瞑想や座禅の場にふさわしい造景として発展してきたそうです。 禅は深山幽谷の大自然の中で思惟思索をめぐらし、座禅を行って悟りに至る、自らを変革する自立の宗教です。禅者にとっては、遊興の世界は不要である。 白砂の上に大小の自然石を立てたり、据えたり、組み合わせることで、ひとつの観念的世界を創造します。
自然と向き合い、自らの存在と一体化することで、無でなければならない自身を見いだす境地に立とうとする。 それは見えざるものの中にそのものを見、聴こえざるものの中から、そのものを聴くといったところに枯山水の表現が求められたのです。
これは星の王子さまの「心で見なくっちゃ。ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ。」という行でしょうか。
40歳を過ぎ、若さになんとかしかみつこうとする浅はかな自分に、この美しく枯れてゆく薔薇が戒めてくれているようにも感じました。
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