篠田桃紅作品@菊池寛実記念 智美術館
美術館のドアを開くと、いきなり大きな壁画が目に飛び込んできた。壁面の右側3分の2ほどは大きな余白。その中央に鋭い直線が数本余白を切り裂くかのように縦に走っている。下では黒い塊がしっかりとそれを支えていて、全体として安定感と緊張感、さらにはある種の不安感をもたらせている。いや、壁面の大半を余白と言ってしまったが、これは空(くう)と言うべきであった。空…般若心経の「色即是空、空即是色」の空である。空の持つエネルギー、緊張感と描かれた墨の持つエネルギー、緊張感が激しくぶつかり合って、すさまじい緊張と大きな調和を生み出しているように思える。壁面左3分の1は、遠目には墨で塗りつぶされているように見える。しかし、近くに寄って見ると墨色のほかに銀泥あるいは青墨が混ざり合ったような微妙な色合いが見られ、しかも筆の運ぶ方向によりあたかも数枚のパネルを重ね合わせたかのようである。画面に重厚さと詩情をもたらせている。画面の左右趣の異なった表現の組み合わせにより、私には全体から生まれる力強さと繊細さ、強固な意志と柔軟な心情、強い緊張感と根拠のない不安感などが混ざり合って、大きな抱擁性が感じられる作品である。 ここでちょっと気になったのは、この壁画に「ある女主人の肖像」という何やら意味ありげなタイトルがつけられていることである。ある女主人とは具体的などなたかをさすのか、篠田氏の頭の中でイメージした女性なのか、姿かたちを抽象として写し取ったものか、ある女性へのオマージュなのか、いろいろ考えられ、篠田氏の制作意図をお聞きしてみたいが、常々抽象画の作者は作品について語るべきでないとおっしゃっている篠田氏のこと、ただ笑って「あなたが感じられるままに」とお答えになるだろう。もし、制作にあたってイメージした人がいたのだとすれば、その人はきっととても厳しくて反面優しさも持ち合わせた包容力のある女性なのだろうなと思われる。そのようなことを意識しながらこの作品を見ると何か新しい発見があるのかもしれない。 ここ智美術館の受付は1階にあり、地下の展示室へは受付脇の螺旋階段を下りていくのであるが、下りる前に階段室全体をゆっくり眺めてみたい。階段室の半円筒状の壁は銀色に輝いている。この銀地の上に抽象図形がコラージュされ、ダイナミックな篠田ワールドが展開されているのである。コラージュ片には、いろは歌の断片かと思われるかな文字が散らし書きされており、繊細さ・優美さを醸し出している。壁画といえば平面的で、おもに横への広がりを意識してみることが多いが、ここでは上下の広がり、つまり左上から右下への斜めの広がりとして捉えることになる。それも曲面上で。とても新鮮に感じられ、美術館、建物の設計者そして篠田氏の意匠の巧みさに感じ入るほかない。階段は一段一段ゆっくりと下りたい。一段下りるごとに目に映る壁画が少しずつ変化していくのが楽しい。螺旋階段の特質を生かしたもので、この壁画の第二の楽しみ方と言えよう。展示室フロアに下りたら、振り返ってもう一度階段室を見上げてみよう。上から見下ろすよりもずっと大きな篠田ワールドが迫ってくるはずである。これが第三の楽しみ方だ。このとき、階段の手すりに目をやることを忘れないようにしたい。ガラス工芸の第一人者横山尚人さんによるガラスの手すりが、壁面の銀地を受けて光輝いているではないか。 しかし、階段室のこの空間は何なのだろう?と考えたときに、これは一種の“結界”なのだと思いいたった。結界…寺院で内陣と外陣の間や外陣の僧と俗の席を分けるために設けた木の柵、あるいは茶の席で道具畳と客畳の境におく仕切りなどをいうが、一階の俗世界と、地下展示室の精神世界をわける目に見えない柵を具現化したものではないだろうか。 展示室には、ディーラーとして、またコレクターとして、長年篠田作品にかかわってきたノーマン・トールマンさんのコレクションが数多く展示されていたが、そのほとんどが初めて目にするものであり、中には思わず目を見張り、息をのむ作品も多くあり感動的であった。さらに、普段絵画を展示する美術館を見慣れた目には、ケース内や台上に陶芸作品を置いてみせるためにリチャード・モリナロリがデザイン・レイアウトした展示室そのものがとても新鮮に感じられた。篠田の墨象展はすでに終わってしまい、今は本来の現代陶芸の展示が行われているが、陶芸にはとくに興味がないという方でも、篠田の壁画と階段室に興味を持たれた方は、折を見て足を運ばれることをお勧めしたい。きっと展示室のレイアウトを見ているうちに、陶芸作品にも見入っていることと思いますよ。そして、帰りには一階ロビー脇のレストラン「ヴォワ・ラクテ」へ。日本庭園を見ながらの食事はとても美味しいという評判です。わぁー、また行きたくなってしまった! ]]>