草森紳一先生のこと 2
官能の河 ―フローランス・ミアイユの動画について― 草森紳一(作家・美術評論家) ぼんやりと、しかし目を皿にして見る。 これが物に接する、物を見るにあたっての私の観法であり、礼法である。花を見る時も、人と向いあう時も、本を読む時も、絵を鑑賞する時も、映画を観る時も、みな同じ流儀で行く。かならずや得るものがある。 フローランス・ミアイユの動画に対しても、もちろん、そうしたのである。「ぼんやり」は、私の生れつきの特性だが、ものの全体を偏見なくとらえるのによい。一方、神経を集中して「目を皿にする」のは、細部を洩らさぬためである。ものの「ど真ん中」「核心」は、案外と細部に隠れ、ひそんでいる。 矛盾した神経活動のようだが、子供はみな自然にそうしている。この世に生まれたからには、森羅萬象を楽しみたい、という欲ばりな私は、ほんのすこし、子供を真似しているだけである。神経とは、「神の通る経(みち)」である。 これまでに誕生したフローランス・ミアイユの6本の動画は、「珠玉の輝き」をもっている。短いもので4分、長いもので16分、合せて1時間をすこし越える上映だが、そのことごとくが、珠玉であり、その内容たるや、淵を覗きこむような深い神秘感がある。アニメーションという言葉は、俗化しているので、あえて古語となった「動画」の語を私は用いるが、さながら「動く絵本」の趣きがある。しかし、れっきとした映画である。 隅田川沿いに架かる永代橋から清洲橋にかけては、私の散歩空間のひとつである。清洲橋を渡って、しばらく明治座に向って浜町界隈を歩いていくその途中にユニークな画廊、「アートスペース・サンカイビ」がある。 私は、展覧会嫌い・画廊嫌いなのだが、なぜか、散歩に出ると、かならずここにふらっと立ち寄るのが、ここ5、6年の習慣になっている。コーヒーを御馳走になりながら、ゆったりとくつろぐのだが、そういう中で、フローランス・ミアイユの珠玉の動画に出会ったのである。 今は亡き粕三平さんに誘導されてチェッコのアニメーションのファンであったが、それとは一味も二味も違うフランスのミアイユの優雅な作品と遭遇したのだ。私のいつもの流儀に従って観ている時は、寸秒もおかずに惜しみなく転換し、目まぐるしく変易してやまぬ「奇」の動き(踊りというべきだ)にひたすら目を奪われ、追いまくられるまま、あっという間もなく終ってしまうのだが、そのあとには、あんなに画面が賑々しく踊っていたのが、嘘でもあったかのように心がすっかり「カラッポ」になったような酩酊感の如きものが、じわっと残るのみで、映像はすべて退場してしまっている。ただこの酩酊感はいつまでも残りつづける。 それは、物足りなかったからではなく、物足りたからである。観客としては至福の時ともいうべきだが、物書きとしては、すこし困ることである。何も書くことがないのだから(観客本位に言っても、責任がある。映画の半分は、観客の受けとめるイメージによって完成させねばならない)。そこで、これを機に、浜町の「サンカイビ」にノコノコ出掛け、「ぼんやり」と「目を皿にして」の我が流儀で、一挙に再鑑賞したのだったが、ことは同じだった。 心地よいからっぽ・あっけらかんとした空虚。ひとつ、引っ掛ってくるものがない。といっても、目を皿にして見たのだから、釣り針にひっかかってきた画像は、もちろんある。 たとえば、「シエラザード」の女性不信から殺人鬼と化した王の剣さばき。三角形のにぶく輝く金色の短剣が、女の肌に突きたてられた時の、あの音無しのえもいわれぬやわらかな感触。「托鉢僧になった王子」の一人は、小さな島にたどりつくが、そこにはピラミッドが立っていて、そのてっぺんには、前脚を空に浮かせた荒馬に乗る騎士がいる。銅像かと思いきや、騎士も馬も生きている。王子はその騎乗の武将を弓で射る。もんどり打って海上に落下するが、その時、大きな水しぶきがおこる。まるで太陽の鏡が粉末塵に割れて散ったかのように、思わず息を呑むばかりの金色のゴージャスな飛沫である。 たとえば、「ある8月の第1日曜日」。汗ばむような暗い森の木陰ごしに、ミアイユの視線がある。祝祭に向かい恋人をうしろにのせたバイクや家族をのせた車が、ざわざわと、通過していく冒頭のシーン。私が、もっとも好きなシークエンスである。 「白い鳥 黒い鳥」。舌も歯もないが、どう猛な口觜を大きく開きあってキスしている二羽の黒鳥。このシーンを「しばしとどめん」と欲するなら、映像をストップさせて見るしかないが、そのような静止体のスチールでは、すでに死に体である。この対の黒鳥は、キスを合図にめざましく変化を開始し、ほどなく合体して一つの物体となるが、たちまちそこから人間の顔らしきものがあらわれはじめ、そのうち一つの顔にと変容をとげる。ところが、あっという間にまたまた分裂し、いがみあって伺いあう二つの顔になっている。 かかる速妙な動きの連続技に目を奪われて、考える暇もないが、それでも、ミアイユの「動く絵本」を見ているうち、わけもなく手前勝手な記憶がさしこむようにして浮上してきたのには驚くが、私は、鑑賞時間への純粋な無用の邪魔立てとはけっして思っていない。あくまで彼女の映像に刺激を受けて飛び出してきた記憶であり、どこか深いところでつながっていると考えているからだ。 一つは、30代の半ばごろの冬の記憶である。そのころ、私は仕事で、あるマンションの一室にカンズメになっていた。ある日、「清少納言物語」の蟲めずる姫君のような中国の華僑の少女が、用があって私を訪ねてきて帰り際に「これ、あげる」といってなにかを差しだした。まるで葉巻のような木片で枝まである。いぶかしげな表情の私を見て、「これ蝶のさなぎよ」とケラケラ笑った。面白い棒(円筒)のかたちなので、私はそれを本棚に並ぶ本と本の間にその先端が見えるようにしてはさんでおいたが、そのうちその存在さえ忘れてしまっていた。20日ほどたった、そんなある夜、なにか天井に激しく物がぶつかる音に気づいて、なんだよ、うるさいなと見上げると、あろうことか、揚げ翅の蝶が1頭、部屋中をあちこち苦しげに飛びまわっていたのである。それは、青い筋の入った揚げ翅の蝶であった。どうやら暖房の暑熱で、季節はずれにさなぎから、哀れ脱皮してしまったらしい。 もう一つミアイユの動画を見ながら不意に思い出したのは、40過ぎのころの話である。真夜中の雨の中、食事に出かけようと外に出た。信号が青になったので横断舗道を歩きだした時、横合いからヌーッと現れた黒い車に、勢いよくゴムマリのようにはねとばされた。雨の降りしきる夜空に舞っている時間は、一秒もなかったと思われるが、その間、それまでのわが人生のあれこれをひとめぐりし、「まるで走馬燈だな。まあ、いいか。このまま死んでも」観念したが、たまたま着地したところがよかったのか(ガードレール寸前)、今もこうして生きながらえている。走馬燈は現代の風俗には消滅したが、「とうろう」のことである。この世の物ごとが、あまりにも素早く転変するはかなさの「たとえ」である。 ミアイユの幻想世界の底に流れるものは、移り逝く時間のようなものである。喜怒哀楽に流されて生きる人間の営みをめまぐるしく色に形にと動画化しながら、じっと彼女は凝視しているところがある。「ハマム」の女たちの集う浴場風景には、そういう視点も必要である。「時間」は、しばしば「河」の流れにたとえられる。河は、変化してやまない。画廊「サンカイビ」からの帰途、隅田川の黒い流れを眺めつつ永代橋を渡りながら、日本人におなじみの「不易流行」とか中国哲学の最後峰である占干(せんぼく)の中に人の運命を見る「易(易は、変化のこと)」に近いものが、ミアイユの作品にも流れているのかな、と考えたりもした。 西洋人のオリエンタル趣味には違和感を覚えることがあるが、彼女の動画の世界観・宇宙観には、なにかしら親しみが感じられる。彼女の作風には「はかなさ」への嘆きが流れている。 踊りのシーンは、ミアイユ動画の魅惑の一つである。踊りは、ルールに縛られているが、リズムは、それ事体、河の流れの属性であり、時間の世界である。ルールあるかぎり、いずれそのリズムの時間は消滅する。人が時に一瞬の自由に身をまかせて踊り狂うのは、その消滅を予期しているからだが、人間の肉体は、永遠に舞いつづけるわけにいかない。祭りにも期限がある。無礼講の祝典が終れば、広場には、人間くささを残しながら空虚と寂寥が待っている。 ミアイユの動画には、しばしば整序正しく歩む行列の一隊が画像の前を横切ることがある。これは、いつも氣になっている。「ある8月の第1日曜日」では、同じ衣装の少女たちが、澄して行列をなして歩く。可憐である。余興のダンスに組み込まれた振り付けなのだろうが、時間を司る王が太陽だとすれば、規約正しい行列は、時間を刻む神の似姿であり、変化を忘れているものへの警告であり、恐怖の象徴ともいえる。 水なる河は、人間の生命そのものだが、時には、破壊王ともなる。その頂点が、大洪水である。なにものを流し去り、しばらく混沌をもたらすが、人間は立ちあがって、再生の建設にとりかかる。 この退屈なまでの循環よ!人間の内部にはこのパターンがセットされている。最新作の「カルチェ物語」は、「破壊―混沌―建設」というパターンのミニ版であり、その現場の動画化、絵本化である。この背後には、経済と政治の魔物(毒)が巣喰っている。破壊活動のかたわらには、(おそらく)汚れたセーヌ河は流れているが、もう一つの河、つまり人工の河であるアスファルトの道路は、休むことなく列をなして走る車を載せ、流れている。この二つの河にはさまれて、むかしながらの喜怒哀楽の比喩的な時間の河を生きる市民は右往左往している。 私は、ミアイユの全作品を観て帰った夜、妙な浅い夢を見た。23・4の編集者時代の私が出てくる。くわしくは省略するが、「東京大空襲」の特集号の雑誌の見本ができあがってきて、しきりと頁をめくっている。 アメリカ軍の空襲は、なにも日本本土だけでなく、日本人のたくさん住んでいたシアトルなどもやられたのだとわかり、その体験者が手記を寄せているが、その近くに見開きの写真がのっている。 遠くのほうに見える町は炎上しており、その前方には、逃げ惑う日本の少年少女が写っている。本土とちがってアメリカ風の洋服を着ている。 ところが、その静止写真の人物たちがとつぜん一斉に映画のように動きだす。泣き叫ぶ子供たちの声まで入る。それだけでなく、まもなく映画のフレームが切れて(溶けて)、その修羅場そのものに自分が立っていて、私の脇を子供たちがぶつかりそうになりながら走りぬけていく。 こんな夢は、ミアイユがなぜ自分の絵を動かしてみたくなったのかを考えていたので、つい見てしまったのだろうか。 私が、フローランス・ミアイユの動画で、もっとも興味を抱いているのは、画面からにじみでてくる、あの肉厚で豊饒で、しかも洗練されたエロチシズムの根元のようなものに対してである。これこそが、私を魅惑した第一印象であって、この表層の時代にあって、奇蹟的にも思われ、今もその考えは変わらない。いったい、それはどこから湧き出てくるのだろう。 そのエロチシズムは、官能と置きかえてもよい。彼女の動画に、裸体がふんだんに登場し、男女の抱擁のみならず、セックス・シーンの表現もいとわぬからでない。もとより無関係でないが、そうでない大半の動的描写にエロチシズムを感じとるのだ。 例をひくなら、「托鉢僧になった王子」である。木こりに身を落した王子が、高い樹木からするするとすべり降りる。ふと根元に扉を発見し、その中にもぐりこむ。宇宙の樹・生命の樹の如く、地上の高樹は、地下の穴に一直線につながっている。 その地下には、魔神によって美女が幽閉され、彼の独占物となっているが、留守である。王子と美女は、たがいに磁石に吸いよせられるように裸になって媾合(こうごう)する。魔神の帰宅をおそれずかなりしつこい男女の合戦となるが、心理的にはそうなるだけの感情のためがある。この描写を官能的だといっても、否定しないが、むしろ王子が、彼女を発見して、じっと物かげからみつめていたり、なんだろうと好奇心に駆られ地下の穴にもぐっていくことのほうがエロチックである。 官能とは、五官の機能である。その五官が総動員される時の動きこそがエロチックなのだ。怒り狂った魔神の暴力三昧のほうが、発見されて五官を萎縮させている哀れな王子よりも、はるかにエロチックである。極端にいえば、図形としての三角形と円が、五官を総動員して対立しても、エロチックだということになる。この伝でいけば、ミアイユの作品のすべての部分が、官能的だということがわかるだろう。 この官能的動きを裏側から支えているのが、古典をふくめ、激しく浮沈した近代絵画への知識と技術である。伝統美術の権威の破壊を求めて、痛ましく変遷した印象派、立体派、未来派、ダダ、シュール、抽象画、表現主義、フォーヴ、構成主義の破片が、彼女の官能に奉仕している。 それだけでない。行き詰ったこれらに代って20世紀後半の寵児となった大衆芸術、つまりイラストレーション、グラフィック・デザイン、映画、写真の技法と実践体験が、彼女が絵を動かすことに大応援している。彼女は、装飾美術大学を卒業し、雑誌のアートディレクターもしている。 彼女のうちなるものは、まさに「混沌だ」といってよい。美術史の見地に立てば、彼女は「遅れて来た青年」だが、手わざに等しい動画への開眼によって、ものに統一と律動があたえられ、雑多な血肉化した彼女の新天地を発見するに至っている。 なによりも壮なるは、天与の資質もあるだろうが、官能の敵となりがちなそれらの知識や技術の破片をことごとく原始的に肉化再生していることなのだ。しかも古くて新しい生命哲学の芯がその中に一本直通して、混迷の21世紀に拮抗している。彼女のエロチシズムの源泉は、まさにここに求められるべきだろう。フローランス・ミアイユの動画には、スピリットが充満し横溢し、まぶしいばかりのオーラを放っている。 アートスペース・サンカイビ『フローランス・ミアイユ 1985-2007』2007年刊 より ]]>