高畑監督:
ミアイユさんの作品を最初に見たのは、日本ではなくフランスのどこだったか…、2001,2年ごろに「ある8月の第1日曜日」を見たのです。映画祭のスクリーンだったと思いますが、たいへん感心しました。
その後、2003年に初来日された時に、東京の日仏学院で、「ハマム」や他の作品を一観客として見ました。「ハマム」という作品が一番最初の作品ということで、たいへん感動したのです。「ある8月の第1日曜日」は作品として好きだったのですけど、「ハマム」は、言葉にどういうふうにしたら良いかわかりませんが、絵が非常に魅力があるわけです。ご覧なった通り、たいへん素晴らしい絵、それが、変な言い方をしますが、魅力を壊さないで動いていたのですね。やっぱり動かすと、どうしてもしっかり出来ている絵そのものが壊れることが多いわけなのです。そういう(壊れる)ことがなくて動いている、という。僕なんかが考えているような意味でのアニメーションとは非常に違う作品で、大きな感銘を受けました。それは今も続いているのですけど…。
その後の作品を、今日、皆様はだいたいご覧になったわけですが、だんだんアニメーションの部分が強くなっていることは確かなのですね。最後の「カルチェ物語」は、登場人物もかなり多く、お話も、人形のお腹に入っている物がどうなっていくのだろう、と惹かれて見ていく。ストーリー性と言いますか、だんだん変わっていらっしゃるのだなということが良くわかったのです。しかし、やっぱり僕にとっては「ハマム」という最初に作られたものの大きさが非常に強く印象付けられたわけです。
いろいろお聞きしたいことがあるのですが…。僕自身すごく思うのですが、非常にフランス的な感じ、フランス的とは曖昧なことですが、ただそういう感じがする。しかも地中海的とも言える。地中海というとフランスだけではなく、北アフリカやいろいろな要素が入っているわけで。例えば白い人が怒って、真っ赤になる、王様がそうでしたが…。黒かったり、赤かったり、白かったり、混じり合っても少しもおかしくない世界、そういう感じがするし、ミアイユさんの絵そのものの一種非常に気持ちの良い、基本的な意味での明るさみたいなところが、地中海的な感じがするのですが。僕が印象を受ける地中海的ということとミアイユさんの絵には、何か理由があるのでしょうか?
ミアイユ先生:
もちろん地中海的と思われたことには、いくつかの理由があると思います。私自身、強く地中海の影響を受けていると思います。私の父がフランスの南の生まれです。私自身は、とてもパリの人間だと思いますが、自分のルーツは父の生まれた南仏フランスの村にあるといつも考えています。パリで暮らしていても、毎年その村に行って、自分のルーツを再び確認せずにはいられません。それから、今、地中海的とおっしゃった時、フランスだけではないとおっしゃいましたが、確かに地中海の周り全てが重要になってくると思います。地中海の周りの国々、南フランス、イタリア、スペイン、北アフリカ、すなわちチェニジア、モロッコも入ってきます。これらの国々は共通点があるので、それぞれが似通った部分を持っています。
地中海のお話の前に、私の作品についてお話くださったことは非常に深く感銘を受けました。私自身、絵がたとえ動いていてもアニメーションになっても、絵画であり続けるということをとても重視しています。私自身意図的にそうしています。絵が動いているけれども、一つのキャンバスを見続けているような印象を与えるべきだと考えているのです。そうした要素が、特に「ハマム」の中では強いでしょう。「ハマム」は私の作品の中でもっとも絵画的な作品だと思っています。
しかし、その傍らには、ストーリーを語ってみたいという誘惑が存在します。ですから、私はその二つの間で揺れ動いているような気がするのです。造形的にストーリーを語るか、あるいは文学的にストーリーを語るか、その二つの間で私は揺れ動いています。最新作では両方やってみたつもりなのですけれども…。
T:
なるほど。そうですね、特にタッチが変わっていましたね。油絵のせいですかね。まず、筆の感じが非常に強く感じられましたよね。
M:
確かに、最新作では、今までの作品では使わなかった新しいテクニックを使っています。「カルチェ物語」ではコンピューター技術も導入しているからなのです。それぞれ別々に絵は作るのですけど、背景や他の人物と組み合わせたり、様々なレイアーで作った絵を組み合わせる時にコンピューターを使っています。
そこで少し難しいことが出てきました。私が好きなのは、絵の具の痕跡や、使った素材の痕跡が残ることです。しかし、「カルチェ物語」においては、例えば描いている時に起きる偶然の事故などの跡を残すのが、かえって難しくなったのです。すなわち、絵の具の素材感を残すのが難しくなった。コンピューターを使ってしまうと、何か事故が起こった時に、“それを消してきれいにしてしまわないこと”が難しくなってしまうのです。素材感が少し消えてしまいます。ですので、単にパステルではなく油絵を使ったというだけではなく、そのような痕跡を残そうと努力した。筆の跡を残そうとしていました。そうした痕跡を残すことが、直接に仕事をしていた以前のテクニックより、かえって難しくなっています。
T:
わかりますね。コンピューターを使いレイアーに分けてやっていることで変わった、という感じは確かにあったのですが、そうではなく、痕跡を残すということで、上手に残しているなあ、と僕は感心しました。非常に残しにくいのに。おわかりになったでしょうか?手前に動いている人が動く時に、―それまでの映画(作品)とは違うが、影のように残ったり、あるいは絵の具のほんの僅かな消し残りが、人がこちらに動くと一緒に残りながらいったりと、印象的でした。そうすること自体が難しかったわけですね、今のお話では。
M:
そうなのです。そのことで更に手間が一つつけ加わったという感じがし、まさにその作業が難しかったです。
私が今回コンピューターを使ってみたのは、レイアーの概念について、むしろ考えることでした。現実の街そのものがレイアー、様々な層が重なって出来ていると思うのです。ですから、異なる層については、必ず異なる扱いをしていました。まず、最初にあるのは工事現場や機械や自動車の部分です。それは、いわば街の奥深い所、背景を創っている所であります。もう一つ街の背景を作っているのが、無名の人々という層です。無名の人々は影のように取り扱われています。そして、そこに主人公となってくる人物グループが現れてきます。しかし、―その人物は別の取り扱いをされているのですが、その人物によってストーリーが語られているわけですが、そのストーリーはいわば人物が街を動き回る口実に過ぎなかったのです。ですから、この映画においては、“各層(レイアー)でそれぞれの異なるストーリーを持っているように”、というふうに考えて作りました。
T:
なるほど。パリ13区は非常に再開発が盛んな所ですよね。その感じがものすごく良く出ていたと思うのですよね。破壊と建設というか。今の人はわかりませんが、昔の人ならフランスを知らない人でもご存知のシャルル・トレーネの「まちかど」というシャンソンがあったのですが、破壊と建設が歌われていました。パリと言うのは、東京なんかに比べて、ずっと昔100年くらい前と同じような景色がそのまま残っているような所がたくさんあるのだけど、その中で、非常に、ひょっとしたら特別な所ですかね。再開発という感じがすごく出ていた。そこでいろいろな人々が蠢いるというのが、本当に。
M:
そういう特殊な雰囲気を出したいと思いました。今、おっしゃって頂いたこと、とても嬉しく思います。そして、先程の私の作品がとてもフランス的だとおっしゃったこと、それは当たっているかもしれません。なぜなら、私の作品にはドキュメンタリー的な部分があるからなのです。ドキュメンタリーのような部分があるというのは、「ある8月の第1日曜日」について言われたことですが、「カルチェ物語」にしてもドキュメンタリー的なところがあります。もちろん私の映画は、現実から少し浮いて、少し上がったところで、ドキュメンタリーになっているのですけど。
また、シャルル・トレーネの名前を出されましたが、私自身もそうしたシャルル・トレーネの時代のフランス映画からたいへん影響を受けていて、その雰囲気を再びこの映画の中で出そうとしているところがあるかもしれません。高畑監督はジャック・プレヴェールがお好きだと聞いていますが、マルセル・カルネとジャック・プレヴェールが一緒に作った映画だとか、その時代の映画を随分見ましたし、その映画が持っている独特な詩、ポエジー、ポエティックなところを私は出そうとしている部分があります。例えば「カルチェ物語」に出てくる子供のアクロバットだとかは、そういった雰囲気に通じるところがあるのではないかと思うのです。セーヌ川に浮かぶ舟が出てきますが、その舟は明らかな形でジャン・ヴィゴ監督の「アタラント号」への言及になっています。このようにフランスの文化、フランスそのものからの影響が、私の作品には確かに見られます。
T:
ちょっと元に戻りまして、絵を動かすことについてどうしても言いたいと思うのです。描くというと、日本では“描く”と一言で言ってしまうのですが、フランスでは“デシネ(dessiner)”と“パンドル(peindre)”、要するに「線を描く」と「色を塗って描く」がある。普通、「漫画映画・アニメーション」と日本で言っているのは、“デッサン・アニメ(dessin anime)”と言い、つまり「命を与えられたデッサン」ということでしょうか。デッサンが絵画(peindre)つまり、絵の具を使って描くような絵、そういう感じがするのです。が、もっと元へ戻ってみると、線で描こうが、筆で色を塗っていこうが、そのこと自体の中に動きがありますよね。それを思い出させてくれるのですよ。『デッサンが動き出した』というのではなく、『今その絵が作られている』という感じがする。それが大きな力じゃないか。
既にミアイユさんは前回(2003年初来日展時)おっしゃっているので言ってしまいますが、僕が非常に若い、大学生の時に、日本では「ピカソ・天才の秘密」という名前でしたが「ル・ミステール・ピカソ」(Le mistere Picasso:「ミステリアス・ピカソ」)という映画があったのですね。それはドキュメンタリーでピカソに絵を描かせるのです。―ガラス板の上に。その反対側から撮影しているわけです。どんどん絵が生まれていって、しかもピカソですからどんどん変わっていくのです。次から次へと変貌していって。しかも、ピカソは写されていることを勿論意識してやっているわけだから、あっと言わせるぐらいに変えてゆくのですね。その面白さが非常に強かったのですが、それに似ている側面がちゃんと感じられたわけですね。その作品については影響を受けたと前にもおっしゃっていましたが、もう一度そのことについてお願いします。
M:
デッサンなのかそれとも絵なのか、その違いは私も頭の中にもあります。フランス語でアニメ映画・“デッサン・アニメ”というと、絵の方を描いて、それから撮影をします。でも、今、フランスでは、“フィルム・ダニマシオン”(film d’animation)という言い方がされるようになりました。それは、いわゆるアニメ映画ではない、ボリュ―ム(立体)があるものを使ったアニメであるとか、先に絵を描いて撮影する以外のテクニックを使った全ての映画のことを“フィルム・ダニマシオン”と言うようになっています。こういう違いがあります。
私自身、最初からアニメーションの世界に来たのではありません。まず、絵画と版画の勉強を致しました。そして、今お話した「ピカソ・天才の秘密」を見て、非常に感銘を受けました。もちろん「ピカソ・天才の秘密」と同じようなものを創ろうとは思いませんでした。けれでも、その映画を見た時、絵を描くというプロセスの中にある痕跡の全てを保持すること、残すことができるということがわかったのです。絵を描く、その動作の痕跡を映画であれば全て残せるということ。
「ハマム」を見れば一番明らかに出ていると思うのですけど、「ハマム」の場合は最初からアニメーションを作ろうと思ったわけではなく、連作の絵画を描いてから、あのアニメーションにいきました。その際に「ピカソ・天才の秘密」のように、一本の映画によってその絵に至った痕跡全てを残していくことができると思ったのです。描いている途中にあったためらいの跡や、フランス語でルパンティール(repentir):後悔する、つまりそれできなくて残念だと思った、悩んだ、そうしたもの全てを映画であれば残せると思ったのです。一枚の絵の奥行き、絵の具の厚みの中にある部分を映画で見せられると思ったのです。もちろん、あの映画の中には表面のストーリーはありますけど、それと同時に絵が描かれてきた過程において起きた私のストーリーを、映画の中で語ることが出来ると思うのです。そして、映画を作るにつれてそうした部分を失くしていかないように気をつけていかなければいけない、ただの格好づけのアニメーターに近づいていってはいけないと思っているのですけど。
いずれにせよ、「ハマム」の中には2種類のストーリーがあると思います。映画そのものが語っているストーリーと、私の描いた絵の厚み、各層が作ってきたストーリーとが入っていると思うのです。あの作品を見ると、自分が絵を描いてきたその動作が見られると思います。
T:
おっしゃる通りのように思えます。あの作品を見て。
ちょっと突然話を変えさせて頂きますね。「ある8月の第1日曜日」でお母さんにすがりにいくのは男の子でしたよね。「カルチェ物語」の場合も人形に非常に執着したのも男の子だったですね。お子さんが二人いらっしゃって、上の6Fの展覧会で“テオ”というのが息子さん ―今はもう二十歳で大きくなったのだけど― だと知ったのですが。女の子もお持ちだと聞きました。来る前にお子さんは?とお聞きしたいと思っていたのですが、もう(今日は)知ってしまいました…。
男の子がそういう形で出てくる、つまり“母親と男の子”という形で出てくるというのは、何か関係があるのですか?
M:
もちろんそうです。映画を作っている時には、自分自身に関わる多くのものから影響を受けています。今、ご指摘なさった小さな男の子は、少しばかり私の息子です。もちろん完璧には彼自身というわけではなく、他の子も入っていますけれども。ただ、「ある8月の第1日曜日」と「カルチェ物語」に出てきた男の子は、ほぼ同じ男の子です。 このように、いろいろなものからインスピレーションを受けます。自分の子供であったり、母であったり、息子が小さかった頃の思い出もあります。息子自身、あの映画に出てくる少年のように学校に行くのを嫌がっていて、いつもお母さんに叱られてやっと学校へ行く、お母さんに引っ張られるような少年でした。
そして、私はまた、周りで起きていることを観察してメモ代わりにクロッキーをします。この映画に出てくる男の子は母親が父親と踊るのを妨げるのですけれども、そういった風景はあのような野外の夏パーティーではよく見られるのです。ですから、息子からきている部分、自分が観察したメモ代わりのクロッキーからきた部分があります。「ある8月の第1日曜日」の時は、随分クロッキーをとってから映画にしましたので、映画を作る時あるいは脚本を書いている段階で、両方の部分が出てくるのだと思います。
映画にはそれほど出てきませんが、私は娘もいます。娘の方は、二番めの子でしたから、それほど私に面倒をかけなかったこともあるのでしょう。息子に比べて学校に行くのを嫌がったりしない、もっとおとなしく静かな子だったからです。でも、彼女も私の映画の中にでてきているのです。自分自身で気がつくたびに、少し微笑んでしまいます。8歳か9歳ぐらいのときでしたか、娘は自分の友達に会うと、「こんにちは」を言う前から動作をする、手を打ちながら歌を歌ってする、そういう子供でした。ですから、映画の前面にはでてこないけれど、後ろの部分で、娘がしていたように手を叩きながら歌を歌う女の子が出てきます。
T:
面白いですね。ついでに、今、お子さんのことを聞いたから、一つお母さんの話を伺いたいのですけれど。お母さんからの影響も大きいですよね。
一応、皆さんにお伝えしたいと思うことがあるのです。今日がはじめての方がたぶん多いと思うのですが、ミアイユさんの作品はすごい情報量があるのですよ。見れば見るほど、いろいろなことがわかってくる。どのくらいわかられたか知りませんが、観察力のある人は既にたくさんちゃんと把握されているかもしれない。僕なんか随分ぼんやり見ている方らしくて、見るたびに本当に面白い。いろいろなことをしていて、それを一つ一つ、全部繰り返し見ていくほど面白さが増してくる映画ですね。
それはともかく、元にもどりますが、お母さんも絵描きだそうですが ―6階(展覧会)にお母さんの大きな肖像が一枚ありましたけれど― お母さん、あるいはお父さんのお話を含めて少し伺いたいのですが。影響のこととか…。
M:
母は画家で、強い影響を受けました。しかし、母親が画家である時、自分も画家になろうと思うのはとても難しいことです。すなわち、母親の辿ったのと同じ道を、母親の足跡を辿ってそれについていくわけにはいかない。少しずれた道を辿らなくてはいけない。ですから、彼女のお蔭で私はアニメーションの世界に来たといってもよいでしょう。絵画を続けていると、いつも母親の後ろをついていくということになっていったかもしれませんので。アニメーションをすることで、私の自分自身の領域を見つけたという言い方もできるかもしれません。
同じ家族ですから、同じようなものから影響を受けて、母も私も成り立っています。そして、私は子供の時から母の絵を見てきました。家の中に母のアトリエがありましたので、毎日彼女が絵を描いているところを見ていたし、私達もモデルになってポーズをとったりもしていたのです。したがって、望む、望まないにかかわらず影響を受けます。はじめて絵を書いた時、母の絵の真似をした、―模倣だとは言わないけれど、既に母の描くような影響を写したような絵を描いていたのです。しかも、母の場合は、私の描いたものに対して指導をします。訂正をするのです。この部分は割合が悪い、このプロポーションは小さすぎるとか、そういうことを言ってきます。でも、これは母親だから言うのではないのです。
息子はすごいハンサムで、母親は優れた画家であるとよく私は言っています。息子はとってもハンサムなので人が褒めてくれますし、母はとても優れた画家だと私は思っています。父は音楽出版で働いていました。とても地中海的な人間で、とても気前が良くって温かい、そういう人でした。
T:
戦争中、第ニ次大戦中、あるいはその後のアルジェリア(独立戦争)の話をちょっとしていただけますか?要するに、仕事だけではなく社会的な活動のことを。お母様は、ご自分の絵を社会的なことに役立てることをなさったのでしょうか?アルジェリア(戦争)の時、違いますか?
M:
その通りです。当時、母にとってそれは一種の政治活動でした。独立戦争の前でしたが、母はアルジェリアに行きまして、植民地としてのアルジェリアの様子を表わす“絵でのルポルタージュ”を作りました。それは、政治的、社会的な活動であって、母はそのルポルタージュ“を通じて、アルジェリアにおけるフランスの植民地政策を告発したのです。当時、そのような展覧会が多く開かれていました。それは1952年のことでしたから、その後アルジェリア戦争がおきて、アルジェリアは独立しました。そして、独立後、何年かたってから母は再びアルジェリアに招かれました。その時、52年に出会った若者が・・・
T:
52年ではなくて62年では?
M:
母がルポルタージュを作りに行っていたのが52年です。10年後にアルジェリア戦争がおきたのですけど、(※)52年はアルジェリアのFLN(アルジェリア民族解放戦線)ができ、そろそろきなくさい動きが始まりかけていた時代でした。 ※正確には54年(58年カイロに臨時政府樹立、62年アルジェリア独立)
52年に出会った若者が母を再び招待してくれました。母は行ったことがあったのですが、家族の他の者はアルジェリアに行くのはそれが初めてでした。父は南仏の出身と言いましたが、そこからアルジェリアは地中海の向かい側ですぐそこなのですけど、行ったことがありませんでした。招待してくれたのは、おそらく72〜74年あたり、つまり20年後で、その若者も既に父親になって、私と同じくらいの年の子供がいました。私自身は18、9歳で、そこではじめてハマムに行ったのです。
うまく円環が閉じるのでこの話をします。アルジェリアのハマムの中では、結婚式に行く前の新婦を女性達皆で洗ってから新郎に渡すという、いわば婚礼儀式の一部のようなことが実際行われます。それを見たのです。そこで、18歳くらいだった私は、その様子を絵に描きました。その絵は今どこにあるかわからなくなってしまいましたが、装飾美術大学を卒業した時にそのことを思い出して、もう一度ハマムを絵画の中で取り扱ってみたいと思ったのです。
T:
面白いですね。ミアイユさんのこの6階(の展覧会)に飾ってあるものもそうですが、ヌードがもの凄く大胆ですね。「カルチェ物語」の中のお母さんが倒れちゃうところかな。アニメーションで女性に平気で大胆な格好をさせたりするのは、女性の(作り手の)方が平気なのですよね。僕の仲間なんかもそうなのですが、男はどうしても女の子らしく描きたくなっちゃったりして、そうならないのです。
ついでに、大胆であること、あるいは「千夜一夜物語」を描かれたことで、ムスリムの男女関係のあり方みたいなことについて、ああいう作品を作られるとどうしても考えたりされるのでしょうか?その…、女性は隠しているじゃないですか。そういうことについて…。
M:
実際の「千夜一夜物語」の中では男女の関係が実に生々しく、生の形で描かれているのです。「千夜一夜物語」は、子供向けに甘く書き直されたものが随分出回っています。様々な翻訳が出ていますけど、いろいろ読んで元々の「千夜一夜物語」に一番近いものを探そうと努力しました。そしてもっともオリジナルに近い翻訳を見つけた際に、そのボキャブラリーの生々しさに結構驚きました。フランス語で“猫のことは猫と呼べ“という言い方、”真実をはっきり言うべきだ“という考え方があります。したがって「千夜一夜物語」の持っている言葉の生々しさを、全く同じではないけれど映像に移し替えようと思ったのです。つまり、映像で伝えるということ。あの映画の中で、例えば木から飛び降りた男の人が女性の開かれた足の間に直行する、そいいう生々しさを描こうとしたのです。
それからもう一つ「シエラザード」を作ろうと思った理由があります。それは女性が隠されている、ヴェールを掛けられて隠されているけれど、隠しても無駄で、その後ろで何か起きているか我々は知らないのです。直接のきっかけの一つにもなったのですが、エジプトで「千夜一夜物語」のオリジナルバージョンが保存されていたのに、それを焼き払ったということをフランスの新聞の記事で読みました。ですからペルシャ文学は、我々が信じているほど単純なものではないと思いました。
T:
日本ではイスラム圏は遠いので、―石油は依存しているのですが、知らない人が多すぎる。僕ももちろんたくさん知っているわけではないけれど、ある程度は把握しようと努力している人間のつもりです。が、最後におっしゃっていたように単純ではないので、そんなことを話していたら…、今日は止めますけど(笑)。
私の感想を伝えるのに、一つ忘れていたことがあります。それは、フランス的あるいは南仏風ということの中ですが、最初見た時にマティスを感じたことです。マティスという人は非常にフランス的だと、フランスで活躍した外国人も含めて、―あの人はフランス人ですけど、絵描きの中でもっともフランス的だなあと感じのする絵描きの一人だと思うのです。おそらく、絵の影響もあったと思うし、絵の影響だけではなく、マティスが「生きる喜び」という絵を描いて、―その後もいろいろ描いていますが…。「生きる喜び」という絵がそんなに傑作かどうかは知りませんが、ただ、その言葉は非常に大好きなのです。その「生きる喜び」というようなものを描こうとしていたマティスを引き継いでいるのではないかという気が僕はしました。
M:
私の感じでは、画家には二種類いると思うのです。苦しみの中で描く、すなわち自分の苦しみや悩みを表わすフランシス・ベーコンのような画家もいれば、また、喜びの画家、喜びの中で仕事をする画家もいると思うのです。私自身、絵を描く喜びをとても意識しています。絵を描く喜びが映画の中にも出ているのではないかと思うのです。主題はいつも楽しいものとは限りません。「シエラザード」のようにとても厳しい重々しい主題を取り扱ったものもあります。それでも、絵を描く喜びは必ず私の映画の中には残るようにと考えています。それは、自分が描いてきた素材の痕跡が残るようにと考えるのと同じことです。
T:
そのせいですかね。「シエラザード」なんかの場合でも、絵が気持ち悪くない、むしろ気持ちの良い絵になっているところが素晴らしいと思います。
技術的なことはひょっとしたら質問があるのではないかとっておいたのですが…。
(会場に質問者がいないことを受けて)
いろいろな技術を一つ一つ開拓しながらここまで進んでいらっしゃったので、一つずつの作品について述べなければいけないと思いますが、どうしてもミアイユさんがこの技術について説明しておきたいということがあったら、それを一つ選んでお話していただけると有難いです。「ある8月の第1日曜日」の後ろから光をあてた手法など…。
M:
一つ言っておくことがあるとすれば、私が使っている技術は、ダイレクトにカメラの下で描いていく技術だということです。カメラの下に一つの面があって、そこで絵を描いて、そのたびごとに撮影をしている。最初にご挨拶の中で平田美智子さんがおっしゃって下さったかもしれませんが、一人で仕事をしていて、カメラが上から撮っていて、その下に一枚の絵があって、徐々にその一枚の絵を変えて、少し変えるごとに撮影をして、という形です。ですから、ショットの一つ一つについて絵は一枚です。その絵をだんだんに変えていきます。逆にいえば、ショットの最後映像に映っている絵しか残っていない。あるいは全く何も残っていないかのどちらかなのです。それ以外には今おしゃって下さったように各作品ごと、主題によって技術を少しずつ変えています。
「カルチェ物語」でコンピューターを導入したのは、街にある様々な層(レイアー)を重ねて、それについて取り扱いをしたかったからと先程申し上げました。「ハマム」と「シエラザード」では同じテクニックを使っています。つまり、紙の上にパステルで描くというやり方です。
「ある8月の第1日曜日」では別のことをしたいと思ったのです。「ハマム」と「シエラザード」では光はいつも同じで変わっていません。「ある8月の第1日曜日」では、より光を変えて、光の異なる使い方をしたいと考えたのです。そこで、こうした光を使いたかったために一つ考えたことがあります。光のための工夫として、まず登場人物の数が非常に多かったことがあるのです。「シエラザード」の時、そのテクニックにおいては、登場人物が動くたびごとに背景まで全部描き変えなければなりませんでした。こうやって背景をいちいち変えるのは、登場人物の数が増えるとたいへんですので、まずは野外のダンスパーティーという背景の部分を変えなくて済むように考えました。透写紙、少し分厚いトレーシングペーパーの裏側に油絵の具で背景を描き、それに下から光をあてて、それを背景にします。透写紙の上側にパステルで登場人物を描き、下から光があたって背景が見える。上にパステルで絵を描いて、それには点々とした光を上からあてる。下と上と二つの光源があって、人物が動くと、こうやってパステルで描いたもの、前に描いた部分を削って下の背景が見えるようにする。そういうやり方をしたのです。ですから、上側には不透明なパステルで描かれた人物がいて、透写紙の裏側には油絵の具で描かれた背景があって、下から光があたって、それが見える。そして上の光源と一緒に重なって、その光の分量がだんだんに変わる、そういうやり方をしました。
T:
わかったでしょうかね?もう一度上に上がって、展覧会でその部分を見ると少しわかるかもしれませんね。
非常に効果的だったと思うのは、夜の照明があって…、夜だけの照明もあるのですね、お祭りの。そういうシーンだったから、まさに方法がぴったりだったように思いますよね。それが一つと。
僕も作り手だから、こういうことを聞くべきかどうか迷いますが、「ある8月の第1日曜日」も「カルチェ物語」も二つともラストシーンがいったい何だろうか?と思うのですよね。「カルチェ物語」はいろいろ考えさせようとしていると思うので、失礼になることはしたくない。自分達で考えたいと思うのですけど(笑)。「ある8月の第1日曜日」はいいんじゃないかと思って聞くのですけど、最後(のシーン)はお祭りの広場の上で、不思議に引き伸ばされたような人物が踊っている。ひょっとしたら、ちょっと悪いのですけど、これは見えたと言っていいのかな…、男の、その男根みたいなものが見えたりして…。僕の見過ぎかもしれませんが(笑)。プロバンス風だから、あるいは古代ローマ、ギリシャに繋がるかもしれないけれど、平気でそういうものを見せるような…。昔の神々が踊っているような感じもあったのですね。そういうこととは少しは関係があったのでしょうか?
M:
私には男根は見えませんでした(笑)。でも、無意識から男性シンボル的なものが入ってしまったのでしょうか。
あの最後のシーンは写実的な側面から少し離れて、ダンスをするという行為そのものが時代が変わっても永続的なものであるということを見せたかったのです。あの黒い影が躍るところは、古代ギリシャの壺の上に描かれる絵に似ていると言って良いでしょう。あの黒い登場人物が踊るということで、別の国、別の場所、別の時代、別の文化でも踊られている踊りへと繋がっていくのではないかと思います。そして、南フランスの村では、あのような夏の野外パーティーが恋人を見つける出会いの場となっています。それは踊りを通じて、すなわち身体を通じて、動きを通じて恋人を見つける。誘惑の儀式の永遠性みたいなものもあるのではないかと考えます。
いずれにせよ、自分では男根がチラッとでも見えるようなシーンを入れたつもりはありません。ただ、あの時、アニメの撮影台の仕事にはもう一人アシスタントがいたので、その彼女のせいでしょう(笑)。
T:
それは僕の幻想に過ぎなかったかもしれないけれど(笑)、ギリシャの壺絵っていうのは、実にそういう感じが出ていたのですよね。
伺いたいことはたくさんあるのですが…。締めくくれと言われたのですが、締めくくる言葉が一番苦手で、このまま終わっても良いのではないかと思うのですけど…。本当にありがとうございました、ミアイユさん。
静岡でこんな大きなミアイユさんの展覧会ができたこと。それから、必ずしも大きくはなかったかもしれないけれどスクリーンで見ることができた。たいへん幸せではなかったのではないか。僕だけではなく、皆様も同じだろうと思うので、感謝したいと思います。どうもありがとうございました。
M:
どうもありがとうございました。
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